彼女(45)は、中堅出版社の編集者で、都心のマンションに一人住まい。独身である。実家は埼玉県にあるが、母は7年前に亡くなり、父がひとり余生を過ごしていた。
父は、小料理屋の元板前だった。先代の店主から店を引き継ぎ、経営にも携わったが、調理場とのかけもちはさすがに無理で、12年前、親類の紹介で、元広告会社員の太郎(51)に経営を任せた。
太郎は売り上げを回復させ、父の信頼を獲得し、4年前には父と養子縁組をした。
「家や店を太郎に委ねたい。いいだろ?」
養子縁組の際、父はひとり娘の彼女に確認した。
「いいわ。私は自由にやっているから」
当時、彼女は実家のことには無関心だった。
1年半前、父が心筋梗塞で急死した。彼女は病院に駆けつけたが間に合わず、これまでの親不孝を後悔した。
それから1カ月後、父の公正証書遺言の存在が明らかになった。遺言には、実家の不動産を含む全財産を太郎に遺贈すると記されていた。
「全財産なんて」
彼女は驚いたが、当時は仕事上のトラブルで時間をとられたこともあり、遺言のことは頭の片隅にしかなかった。
半年後、彼女は太郎の意向を尊重しながら、遺産分割の協議をする用意がある旨の普通郵便を出した。太郎から「受領した」との返信がすぐに来たが、その後4カ月近くは何の音さたもなかった。
心配になった彼女は、遺留分減殺を求める内容証明郵便を太郎の自宅に発送した。しかし、今度は郵便が戻ってきた。太郎が不在で配達できず、留置期間が経過したからだ。実際、太郎は多忙を理由に受領しなかったのだ。
数日後、太郎は、遺産分割協議に応じるつもりはないと手紙を送ってきた。彼女はせめて遺留分は認めるよう求める手紙を送った。
しかし、この時すでに、遺贈があったことを知ってから1年が経過していた。
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