達筆な父の遺言


 彼女(44)は都内の公立病院で看護師をしている。出身は長野だが、都内の看護学校を卒業後、ずっと都内で暮らしている。長野には両親のほか、公務員の兄(46)と妻(42)、息子(16)がいる。

 父は3年前に雪道で足を滑らせて大けがをしてから、寝込みがちになっていた。2年前からは、老人性白内障による視力の衰えと脳動脈硬化症の後遺症も患っていた。

 半年前、その父が亡くなった。朝に訃報を聞いた彼女は、夜勤明けの眠さも吹き飛んで、実家へと駆けつけた。

 「何か兆しがあったの?」

 彼女は母(70)に尋ねた。

 「昨晩は何ともなかったんだけどね」

 母からそれ以上の説明はなかった。

 告別式が終わると、家族一同が実家の居間に会した。

 「お前も東京に帰るし、あまり話す機会もないと思う」

 兄が、彼女の方を向いて、話し始めた。

 「おやじの遺言がある」

 兄が父のタンスから遺言を出してきた。内容を見ると、そこには実家の建物を除く、ほとんどの財産を、兄とその息子に相続させるとあった。

 彼女は不満を感じた。実家から離れていたとはいえ、不公平だと思ったからだ。

 遺言を何度も見直すうち、彼女は不可解なことに気がついた。遺言の日付は亡くなる半年前。ゆがんだ字が一部あったが、草書風の達筆な字もあり、便箋3枚に行からはみ出すことなく、おおむね整った字で書かれていたからだ。

 だが、当時、父は手の震えがひどく、独力で満足な字が書けないし、筆談もできないと母から聞いていた。

 「遺言はお父さんが1人で書いたの?」

 彼女は兄に聞いた。

 「おやじの手が震えるから、おれが手の甲を持ってやり、おやじの声を聞きながら書いてやったんだ。最初は、字がねじれたり、重なったりして読めなかったからな」

 彼女は、遺言に兄の作為を感じざるを得ないのである。

 
 
積極的な誘導があれば無効

 他人が手を添えた自筆証書遺言が、「自書」の要件を満たすには、@遺言者が証書作成時に自書能力があり、補助が遺言者の手を用紙の正しい位置に導くにとどまる A遺言者の手の動きが遺言者の望み通りになり、他人から単に筆記を容易にするための支えを借りたにとどまる―など、「他人の意思が運筆に介入した形跡がない」と筆跡で判定できることが必要である。

 本件では草書風の達筆もあり、便箋3枚に行をはみ出さずおおむね整った字で書かれている。当時の父の筆記能力では、手の震えを止めるため父の手の甲を兄が支えただけでは書けないのは明らかだ。

 遺言は、兄が父の声を聞きながらも、積極的に手を誘導し、字を整然と書こうとする兄の意思に基づいて作成されたものだから、無効だろう。

 
  筆者:隈部翔、籔本亜里