遺産を狙う貸金業者


 彼(53)は12年前、保険会社を辞めて家族と一緒に実家に戻ってきた。会社のノルマ至上主義と人間関係に疲れ果て、農業に本格的にかかわりたいと思ったからだ。

 実家は父の代で3代にわたる農家だが、長男(56)も次男である彼も、妹(49)も、農家を継ぐ予定はなかった。農業を取り巻く環境が日ごとに厳しさを増している現状を父はよくわかっていたので、子どもたちに継がせる気はなかったのだ。

 だから彼が「農業をやりたい」と言い出したときも、父は「やめとけ」と言うだけで取り合おうとしなかった。

 ところが彼が退職して実家に戻り、毎朝早起きして父の傍らで畑仕事を手伝いながら農地改良の費用まで負担するようになると、父も彼の本気さを感じざるをえなかった。

 「田畑はこれから、お前に任せる」

 父は、実家の土地と建物、田畑の一切を彼に相続させる旨の遺言をつくった。

 東京のサラリーマンの家庭に嫁いだ妹は相続に関心はなかったが、問題は長男だった。長男はいろいろな商売を始めては失敗を重ね、貸金業者に多額の借金を抱えていたからだ。

 「いい加減、貸した金を返してもらえませんか」

 「もう少し待ってくれ。おやじが亡くなったら、その遺産で返すから」

 こんなやりとりが、長男と貸金業者の間で交わされていたともいう。

 昨年9月末、父が心不全で亡くなった。83歳だった。

 遺言の内容が知らされ、長男に相続分がないことが明らかになった。まもなく、長男に数百万円を貸している貸金業者が貸金債権を保全するため、長男に法律上確保されるはずの最低限度の相続財産(遺留分)を、長男に代わって求めるとの態度を示した。

 「長男さんにも遺留分はあるだろ。貸したもんは返してもらわんと」

 業者からの催促に、彼は困惑していた。
 
 
遺留分請求は一身専属の権利

 貸金業者は長男の遺留分を求める権利を、長男に代わって行使(代位行使)しようとしている。

 遺留分制度は、被相続人の財産処分の自由を尊重しながら、遺留分を侵害する遺言はいったん効果を生じさせたうえで、侵害された遺留分を回復するかどうかは遺留分をもつ相続人の自由意思にもっぱら委ねている。

 遺留分を求める権利は、その権利をもつ人が第三者に譲渡するなどして権利を行使する意思を外部に明らかにしたと認められる特別の事情がある場合を除き、権利者の一身に専属する権利であるといえ、第三者が代わって行使することはできないと考える。

 このケースでも長男が権利を行使する意思を表明したとはみられないので、彼は貸金業者の請求を拒否できよう。

 
  筆者:本橋美智子、籔本亜里