彼女(55)と夫(53)は17年前、この町にやってきた。それまでは東京にいたが、夫が信頼していた取引先に裏切られて事業に失敗。借金に困って家を売り払い、人づてにたどり着いたのだった。
「心機一転、再挑戦よ」
根っから楽観的な彼女は、ため息ばかりついている夫を励ました。
彼女らは、町のはずれに木造の一軒家を借りた。築年数は古い。賃料は月額6万円、2年ごとの更新という条件だったが、保証金(敷金)は100万円と高く、家屋明け渡しに際しては敷金から2割を差し引いた金額を返還するという「敷引特約」があった。
彼女らは町の一角で、小さな食堂を始めた。資金を融通してくれる知人がいたことや、彼女が調理の才能に恵まれていたことが幸いだった。最初は慣れない接客をしていた夫も、彼女に教えられて厨房に立つようになった。
町に来て十数年、2人は必死に働いた。過去をふりかえらずに、進むべき道に目を向けるように努力した。住まいの契約は何度か更新され、賃料は8万8千円になったが、なんとか暮らしていけるまでになっていた。
しかし、そんなつましい暮らしを一瞬の出来事が破壊した。地震だ。明け方に襲った大きな揺れ。彼女らは家の外に逃げ出して無事だったが、家は倒壊した。食堂も少なからぬ被害を受けた。
夫はがっくりと肩を落とした。彼女も言葉がすぐには見つからなかった。
しかし彼女は気を取り直し、できることから始めた。新たに住む家が必要だった。彼女は家主に敷金の返還を求めた。100万円は貴重な現金だった。ところが……。
「20万円は控除します」
家主は、敷引特約を持ち出してきたのである。
「どうして? 地震で退去したのに」
「うちだって被災したんですよ。お互いさまでしょ」
家主の言葉に、彼女はがくぜんとした。
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