母は遺言を書けたのか

彼女(52)は去年、母を病気で亡くした。晩年は認知症もわずらっていたが、彼女にとっては大好きな母だった。

 死去の直後、母の異母兄のAに、自筆証書遺言を見せられた。そこには、次のように書かれていた。

 一、私は、私の全財産を私の兄のAに遺贈します。

 二、私は、Aを遺言執行者に指定します。

 「私が母さんの最後の世話をしただろ。感謝してくれたみたいでね」

 Aが言った。遺言の日付は亡くなる3カ月前だった。

 「おかしいわ。以前、母が遺言を作ったことを、伯父さんもご存じでしょ?」

 母は2年前、次のような遺言を残していた。

 一、不動産、株式、下記二の残金の現金、その他一切の遺産を、彼女に相続させる。

 二、現金のうち、1000万円をAに遺贈する。

 「事情が変わって、考えも変わったんだよ」

 Aの言う事情とは、母が亡くなる約8カ月前にさかのぼる。深夜に大量吐血し病院に運び込まれた母は、しばらくして退院した後、Aの自宅に引き取られて介護を受けた。当時、彼女は夫の転勤で遠方に住んでいた。母には認知症の症状も表れていたので、彼女は、Aに感謝した。

 半年後、母は再入院。その後、昏睡(こんすい)状態となった。遺言は、再入院の直前に作られていた。

 「1回目の入院時にはすでに認知症と診断されていたし、判断力も記憶力も相当低下していた母が、遺言を自分で書いたとは思えないわ」

 彼女は、“新しい”遺言に疑念を抱いた。

 「具合は悪くても、遺言の意味はわかっていたよ。どうしたいのか書いて見せると、うなずいていたしね」

 母の筆跡なので、決定的な反論はできなかった。しかし彼女は、どうしても納得できずにいた。

 
 
心身の状態や事情再検討を

遺言には、遺言者が内容をわきまえるとともに、その遺言を残すことによってもたらされる法的結果を理解する能力、すなわち「遺言能力」が作成時に備わっていなければならない。遺言能力の有無は、遺言者の心身の状況や遺言の内容、遺言作成の動機、遺言者の筆跡などを総合的に見て、判定される。

 このケースでは、彼女の母は高齢で、程度は不明だが認知症をわずらっていた。さらに、亡くなる2年前には別の遺言を作ってもいる。新しい遺言が作成された当時の認知症の進行程度や、遺言を作り直す事情があったかどうかなどを検討しなおすことで、母に遺言能力が欠けていたと認められれば、彼女は新しい遺言の無効を主張できる。その場合には、2年前の遺言が効力を持つことになる。

 
  筆者:本橋美智子、籔本亜里