死の床で出した婚姻届

「ちょっと気分が悪い」

 彼(当時39)が彼女(37)に電話をかけてきたのは、半年前のこと。2人は大学時代からの付き合いで、同居こそしていなかったが、ずっと前から結婚の約束をし、恋人どうしの関係を続けていた。

 「どうしたの。大丈夫?」

 彼女に答える間もなく、彼は血を吐いて倒れた。救急車で運ばれ、ただちに入院。出血の原因は、肝硬変による食道動脈瘤(りゅう)の破裂だった。医師も手の施しようがなかった。

 彼女は、彼の兄と病院に駆けつけた。

 「ずっと具合が悪かったのかい」

 兄が彼女に尋ねた。

 「肝硬変なんて、まったく……」

 昼夜にわたる看病のかいあって、2日後、彼の体調は一時的に回復した。

 「私よ、わかる?」

 「もちろん」

 彼の声は力強かった。

 「結婚の約束を果たさないと……」

 彼は、婚姻届を書きたいと求めた。彼女と兄は同意した。役所が近かったので、すぐに届け出用紙を用意した。記入欄のほとんどは彼女が埋め、本人の署名欄のみ彼がゆっくり記して押印した。

 「ありがとう」

 「私こそ、ありがとう」

 彼女はその足で婚姻届を提出し、受理された。

 病室に戻ってみると、彼の容体は急変していた。4時間後、かえらぬ人となった。

 問題は直後に起きた。

 「あなたなんか嫁じゃない! 婚姻を仮装したのよ!」

 夫の母は結婚を認めなかった。夫の死期が近いのを見て、彼女と兄の2人が、息子の死によって母親が受け取るはずだった遺産や年金などを横取りしようとした、というのがその言い分だった。

 「瀕死(ひんし)の息子に結婚の意思があるはずがない!」

 彼の母の強い反発に、彼女は当惑するばかりだった。

 
 
受理時に意識不明でも有効

婚姻は、社会通念上婚姻とみられる共同生活を営む意思と、戸籍法に基づく届け出によって成立する。このケースでは、彼が意識不明の間に役所に受理された婚姻届の有効性が問題となる。

 婚姻届の提出から死亡まで4時間に過ぎないことから、瀕死(ひんし)の状態だった彼には婚姻届受理時に婚姻の意思があったとはいえないとも思える。

 しかし、将来の結婚をずっと以前から約束し、恋人関係を続けてきた者が、婚姻の意思をもち、かつ、その意思に基づいて婚姻届を作成したときは、受理された当時に意識を失っていたとしても、それ以前に気持ちを変えたなど特別の事情のないかぎり、婚姻届の受理により婚姻は有効に成立すると考える。

 彼女は配偶者であることを母に説得し続けるべきだ。

 
  筆者:本橋美智子、籔本亜里