15年前、彼女(64)は夫(65)と共に北国のA市で和菓子を製造・販売する会社を始めた。「スナック菓子が全盛で、最近の連中は和菓子のこまやかな味
わいを知らない」と、夫は東京の大手企業に勤めながら、若いころから和菓子職人に手ほどきを受けて腕を磨いてきた。早期退職しての開業だった。
店の名は「白鳥屋」。若いころ旅で出会った白鳥のかれんな姿に、夫婦で魅了されたからだ。一度見たら忘れられないかれんさを自分たちの菓子にも表現したいと思った。
まずは観光客に味わってもらい、改良を重ねて味を深めていこうと、1号店はA市の観光名所の湖近くで開いた。その後夫婦の努力が実り、8年前には市の中心部のデパートやホテルで販売し、2年前には和風喫茶「白鳥屋」を始められるまで評判になった。
ところが去年、隣町Bで展開されていた洋菓子ショップ「B白鳥屋」の30歳代前半と思われる取締役が突然訪ねてきて、こう切り出した。「似た名前ですね。私たちと提携し、洋菓子も売りませんか」
2年前に東京の資本が作ったという「B白鳥屋」は、若い女性をターゲットに高級洋菓子を欧風カフェで食べさせるのを売り物に躍進著しく、A市への進出も狙っていた。
「うちは和菓子一筋。洋菓子を売るつもりはない。そちらこそ勝手に『白鳥屋』なんて名乗らないでほしい。『白鳥屋』といえば、この町では和菓子なんだ」。奥の工場から出てきた夫が、さっさと帰ってくれとばかりに言った。
「『B白鳥屋』は高級洋菓子店。おたくと間違えられることはない独自のブランドですよ」。取締役は、東京の潤沢な資本もちらつかせながらA市への進出を言明し、帰っていった。
「15年かけて築いた財産と信用を何だと思ってるの」。彼女は憤りつつも、一抹の不安を感じていた。 |
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