彼(60)は先ごろ、37年間働いてきた食品メーカーで定年を迎えた。定年間際に食材の管理や表示のトラブルが次々と発覚し、彼はその処理に奔走した。食
べ物の大切さを再認識した彼は、定年後自分で畑仕事をしようと考えた。野菜を作りながら、食べ物と人の体の関係を研究する。太陽がふり注ぐなか、汗を流す
のも魅力に思えた。
ちょうど、2年前に亡くなった両親の遺産分割に絡み、両親が30年余り借りていた畑の賃借権の相続が問題になっていた。4人の兄弟は、家や預貯金に比べ 農地には関心がなかった。「おれが借りるよ。畑仕事もいいと思えるようになったから」。その一声で、彼が賃借権を相続することで決着した。
春を迎え、彼は種や肥料を買い畑仕事を始めた。畑はそこそこ広く、市民農園の経験しかなかった彼には重労働が身に染みたが、やってよかったという充実感もあった。
しかし、3カ月が過ぎたころ、畑地の持ち主である茄子(なす)氏が突然やってきた。「あの土地の耕作は認められない」
「え? 両親がずっと借りてきたし、今さら……」。茄子氏と顔をあわせるのは実は初めてだった。畑は彼の両親が茄子氏の父親から借りてきたが、最近長男の茄子氏が相続したという。
「賃貸借契約を調べたら、農地法の許可がないことがわかった。賃貸借は無効だ」
農地法は、農地に賃借権を設定する場合、農業委員会または都道府県知事の許可を受けなければならず、許可のない行為は無効であると規定する。茄子氏はこれを理由に賃借権を否定してきたのだ。
両親が茄子氏の父親とどういう話で畑を借り続けてきたか詳細を彼は知らない。しかし、畑を耕し続け、毎年賃料を払い続けてきたことも間違いない。期待で胸をふくらませていた矢先のトラブルに、彼は困惑していた。 |
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