社員一挙に引き抜かれ

 精密機械部品の製造を中核とする中小企業を経営している彼女(45)は、ショックを受けていた。社員十数人が一挙に引き抜かれたからだ。企てた人物は、同じ会社の元取締役(47)だった。

  会社は30年前、エンジニアだった彼女の父が作った。部品製造だけでは経営が苦しくなり、数年前、父はプログラマーやシステムエンジニアの人材派遣業を始めた。その推進役として、大手IT企業から迎えられたのが彼だった。

  父が2年前に病死した時、一人娘の彼女が後を継いだ。経営経験のないただのOLだったが、周りも応援してくれるというので引き受けた。

  父はしばしば、「機械部品を作ることが本業だ。職人の腕を生かせる機会をつくらないと……」と口にしていたから、新社長の彼女にとっては、本業と人材派遣業とのバランスが最大の課題だった。

  ところが取締役だった彼は「人材派遣の方がもうかる。この事業を伸ばすべきだ」と大幅な予算増を要求し、不振が続く本業を縮小すべきだとも言った。しかし彼女は急な拡大路線には反対で、本業の立て直しも同時に検討してほしいと訴えた。2人の間に微妙な亀裂が生じた。

  このころから彼は、自らが統括していたエンジニアたちを勤務時間中呼び出しては、彼が立ち上げる会社に来るよう勧誘しはじめた。週末には慰安旅行を装って営業の社員たちを温泉に連れて行き、移籍を働きかけていた。

  こうした情報を彼女は、秘密裏に進める彼のやり方に納得できない社員から知らされた。しばし静観することにしたが、3カ月後、彼は退職した。その1カ月後、ほぼ同時にプログラマーとエンジニア11人、営業マン7人が次々に辞め、多くが、直後設立された彼の会社に雇用された。

  「私に人を生かす力がなかったのか」。彼女は打つべき手を見つけられないままだ。
 
 
個人の利益図り違法性ある

 個人の転職の自由は最大限保障されなければならず、単なる転職の勧誘にとどまるレベルなら違法とはいえないが、このケースのように取締役の個人的利益のための引き抜きは違法行為となる。

  彼は今の会社と同じ人材派遣業を自分の作る会社で始めようとした(競業行為)。取締役が退任後に競業を行うことや、在任中の競業準備行為自体は原則として許される。しかし取締役在任中、将来自分が作る会社に社員を勧誘するのは、取締役の個人的利益と会社の利益が衝突する場面だ。彼は勤務時間を利用し、秘密裏に計画的に引き抜き活動をしており、その背信的行為は彼が会社に対し職務を忠実に遂行する義務(忠実義務)に違反する。彼女の会社は引き抜きで生じたと立証できる損害を賠償請求できる。
 
  筆者:菱田貴子、籔本亜里