8カ月前、彼(60)は中堅食料品メーカーを定年退職し、都心郊外のJR駅前に立つ居酒屋「誉(ほまれ)」の主人として再スタートした。
「自分をいつも誉(ほ)めてあげなよ」という先代の主人の思いが、「誉」に込められていた。20年前、彼は最初に勤めた会社が倒産し失業した。すでに40歳で、再就職先は容易に見つからない。落ち込んでいたときに、ふと通りかかった店が「誉」だった。
「落ち込んだって仕方ないよ。生きてりゃ何とかなる。神様はきっといる」。カウンターの向こうから酒を注ぎながら、「誉」の主人銀次郎氏は笑いながら彼に言った。
「わしなんか戦争で生き残ったと思ったら会社は倒産、妻は病死。店も立ち退き騒ぎにあって、何でわしにこんな不幸ばかりが、と思ったこともある。でも、最近生きていてよかったと思えるようになった。あんたともこうして出会えたんだから……ハハハ」
彼は元気をもらった気がした。それ以来彼はこの店に通い続け、会社が休みの日は一緒にカウンターに立って店の手伝いをし、銀次郎氏も彼に料理の手ほどきをした。彼にとって「誉」はかけがえのない場所だった。
1年前、そんな彼に対し、銀次郎氏は定年のお祝いに「誉」を継がないかと持ちかけた。「最近体が言うことをきかなくってね。お前さんなら譲ってもいいよ」
「誉」は株式会社の形を取っていて、株は銀次郎氏と嫁いだ娘が持っていた。それを彼に全部譲ると言う。
「私なんかでいいんですか。本当に……」。まさしく青天のへきれき。彼は喜んで承諾した。しばらくして、株の持ち分は彼に全部譲渡され、無事「誉」は彼に引き継がれたかにみえた。
ところがその1週間後、地主と名乗る男が飛び込んできた。「誉」が立つ土地は会社が賃借人名義の借地だった。「どういうこと? この土地は銀次郎さんだから貸してきたんだよ。あんた誰?」
彼は「誉」の借地の件は聞いていたが、銀次郎氏は地主には話をしておくと言っていた。ところが地主は「借地権の無断譲渡だよ。ここらも再開発しないといけないし、銀次郎さんでここの借地は終わりと考えていたんだから」と、とりつく島もない。
彼は銀次郎氏に相談しようとしたが、運悪く、数日前に銀次郎氏は胸に痛みを訴えて病院に運ばれていた。
「誉を残したい。おれもここで頑張っていきたい」。彼は店のカウンターで手を合わせ、静かに祈り続けた。 |
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