遺言書の筆者は誰なの

「こんな遺言書が認められるの?」。彼女(47)は隣に座った妹(45)と顔を見合わせた。目の前の遺言書には簡潔な意思が書かれていた。

  「私の財産はすべて妻冬子に相続させる。子供らは皆これを了承し、母への孝養を尽くすように」

  遺言の主は2カ月前に脳梗塞(こうそく)で72歳で亡くなった彼女の父太郎だった。妻冬子(55)は父の後妻である。

  「というわけだから、了解してね」。葬儀から1週間もたたないうちに、冬子は彼女たちの前に現れて言った。

  「あなた、最後まで父を自分に都合のいいようにしたのね……」

  父が冬子と再婚したのは10年前。冬子には一人娘がいた。その5年前、彼女は実母(父の先妻)を交通事故で亡くしていた。母は父の道楽や暴力で心身共に弱り、ぼんやりしていたところを車に跳ねられたから、母の死は父のせいだと、彼女は考えている。

  事故当時、父が関係を持っていたのが冬子だった。形式上母になったとはいえ、家が離れていたこともあり、彼女はこの10年間冬子とはほとんど口をきかずにきた。

  父が最初に脳梗塞で倒れたのは3年前。一時は回復したが、その後は衰える一方で、半年前脳梗塞を再発させて再入院した。日付からみて、父が遺言書を書いたのはその入院直後であった。

  「父が遺言を作っていたなんて知らなかったわ」

  秘密証書遺言の形式で、父の署名と日付のほかはすべてワープロで印字されていた。

  「これは太郎さんの意思に間違いないわよ。だって、証人もいるんだから」。勝ち誇ったように冬子が言った。

  「証人って誰よ。それに、倒れている父がワープロを打てるわけないじゃない」

  彼女は本当のことを確かめようと、自ら訪ね歩いた。すると、確かに半年前、父の友人2人が証人として、遺言を入れた封書を病院のベッドで父から見せられたという。しかも当時は公証人も立ち会っていた。父は自分が書いた遺言だと言ったが、筆記者については語らなかったようだ。

  「もう納得してくれたでしょ」。2週間前、冬子は彼女に再び確認を迫ってきた。

  「彼は私や娘の将来を考えてくれたの。だから、娘が感謝の気持ちでワープロ打ちを手伝ったのよ。不思議はないでしょ?」

  攻め立ててくる冬子を前に、彼女は返す言葉を見つけられずにいた。
 
 
厳格な方式満たさねば無効

 このケースでは、太郎が作成した秘密証書遺言が有効と言い切れるかが問題となる。

  秘密証書遺言とは、遺言者が筆記、または第三者に筆記してもらった遺言書に、遺言者が署名押印し、封印したものを、公証人1人及び証人2人以上の前に提出するものをいう。この際、自分の遺言である旨、または遺言書が他人によって書かれたときには筆記者の氏名、住所を述べなければならない。

  筆記者のことを述べるのは、証人らはあらかじめ封印された証書の存在を確認するだけで、その内容が遺言者の意思と食い違いがないかどうかは確認しないので、筆記者に遺言が作成された当時の遺言者の状況などを確かめ、記載内容を確定するためだ。

  遺言作成には一般に厳格な方式が要求されている。秘密証書遺言では筆記者の氏名、住所を公証人に述べることが欠かせない要件なので、これを欠けば当該遺言は原則無効となる。

  このケースでも、太郎はワープロ打ちを手伝った娘が遺言の筆記者であると公証人に述べていないので、遺言は無効だといえよう。
 
  筆者:大迫惠美子、籔本亜里