<彼氏のケース>立ち退けと言われても

 4年前、彼(48)は脱サラして地方の特産品の仕入れと販売の事業を始めた。それまで20年間、中堅商社に身を置いていたが、人生1度は起業したいと思ったからだ。

  事業所は都心にある3階建てのビルの一室においた。そこは、一緒に事業をしようと言っていた同僚と資金を出し合って手に入れたもので、2分の1ずつの持ち分で共有だった。ところが、事業を始める段になって、その同僚は実家の事業を継がなければならなくなり、彼との事業には参加しないことになった。

  だが、気のいい同僚は「部屋はお前が単独で使っていい」と言ってくれた。念のため、その一室について契約を交わした。契約書には同僚の持ち分について、「期間3年、賃料月10万円の約定で賃借する。解約の申し出がなければ、自動継続する」旨が書かれていた。彼は、その部屋の事実上の主として仕事を始めた。

  しかし、折しも不景気の真っただ中。独立前には、「いい商品だね。おたくからも仕入れるから」と言ってくれていたデパートやスーパーが、いざ独立して契約に出向くと「上層部からコスト削減の大合唱。いまは冒険できないよ」と、そっけない返事に変わっていた。

  案の定、事業を始めて半年がたっても、いっこうに契約が取れない。事業所の一室には、地方から買い付けた商品の在庫が山積みされたまま。全くの当てはずれだった。

  独立当初、彼は当面の資金として退職金のほかに、知人の紹介で知り合ったある会社のオーナー社長から個人的にかなりの借金をして、事業につぎ込んでいた。「最初は目をつぶってくれていたんだけどなあ……」。利益が出ないとなると、「金を返せ」と言われるようになった。

  やがて、各方面への支払いが滞り、事業所の一室の共有持ち分が債権者によって差し押さえられ、競売にかけられると、社長がその持ち分を取得した。

  もっとも、景気が回復してきたおかげか、最近になってやっとお客さんがつき出し、スーパーなど大口との契約も取れて、彼の事業はどん底からはい上がり始めた。

  「捨てる神あれば拾う神あり。さあ、これからだ」

  気を取り直した矢先、例の社長が、事業所のもう1人の共有者の元同僚から持ち分を買い取って、一室全部の所有権を単独で握り、今度は彼に立ち退きを迫ってきた。

  「これから借金を返していくから、時間をくださいとお願いしているのに……」

  彼は神経が張りつめて、ほとんど眠れない日々が続いている。
 
 
貸主が替わったにすぎない

 このケースでは、一室の単独所有者となった社長が、彼に立ち退きを迫ることはできそうにみえる。ここで、彼と同僚の間で交わされた契約がかぎを握る。

  彼と同僚の間では、彼が共有者として一室を独占的に使用する合意がある。また、賃料を払って相当期間一室そのものを全面的に使用するという賃貸借に準ずる契約が交わされているとみることができる。つまり彼は同僚から、同僚の持ち分だけ部屋を借りていると考えてもいい。

  借地借家法によれば、建物の所有権の譲渡前に、借り主が建物の引き渡しを受けていれば、借り主は建物の新所有者に賃借権を主張できる。

  このケースでは、彼は社長が同僚の持ち分を取得する前に部屋をすでに使っており、借り主の地位を主張できる。社長は同僚に替わって貸主の地位を取得したにすぎない。従って、彼は社長の立ち退き請求に応じる必要はない。
 
  筆者:大迫惠美子、籔本亜里