数年前まで、彼(73)は中堅商社のバリバリの営業マンだった。仕事イコール趣味で家のことは全部妻(71)に任せっきり。定年後もシニアアドバイザーの肩書をもらって顧客先を飛び回っていた。
ところが一昨年暮れ、朝起きるなり突然気分が悪くなり腹部に激痛が走った。ふとんの上でうずくまっている夫の姿を見て妻は驚き、あわてて救急車を呼んで病院に駆け込んだ。胆のうと腸に異常が発見され、彼は生まれて初めて手術を受ける羽目になった。
「病院なんて死ぬまで縁はないと思ってたのになあ」と彼がベッドの上でつぶやくと、「あなたももう年なの。どこか悪くなったって変じゃないのよ」と妻が笑った。
手術はやや手間がかかったが無事終了し、しばらくして退院できた。「娘たちが2階にいるから安心ね」と、妻は病院帰りのタクシーの中で言った。
彼の家は娘夫婦との二世帯住宅だった。彼の定年直前、妻の希望もあって娘に同居を持ちかけたところ、娘夫婦も借家暮らしから解放されると喜び、トントン拍子に二世帯住宅を建てたのだった。
しかし、妻の期待とは裏腹に、老夫婦に対する娘たちの関心はいまひとつだった。退院当初こそ、彼の容体を心配し、妻の家事を手伝ってはいたが、そのうち仕事や子どもの世話が忙しいとかで、彼らが老夫婦の前に顔を出す時間は短くなっていた。
「おい、そんなことは娘たちに頼んだらどうだ」。ある夕刻、重い買い物の荷物を抱えて帰ってくるなり玄関に座り込む妻を見て彼が言った。
「大丈夫よ。あの子たちにも生活があるし、忙しいでしょうから」と妻。彼には特別の食事メニューが必要だったので、買い物の量も多くならざるをえなかった。若いころは元気よく買い物に走った妻だが、さすがにここ数年は体力が落ち、昔のように重い荷物を持ち続けるには無理があった。
妻は荷物を台所に運ぶと、さっそく夕食の準備にとりかかった。幾つもの野菜を並べ、一つずつ丁寧に皮をむき、まな板の上で小気味いい音をたてながら切り刻む後ろ姿。もう何十年も見慣れてきたはずのその姿に、この瞬間、彼はいとおしいものを感じていた。
「もし、おれが死んだら、あいつはどうなるんだろう」
彼は、妻がひとりになったときのことをまじめに思い巡らしていた。 |
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