「建て替えが必要なんです。お願いしますよ」
「ご覧の通り、うちはここで商売やってるんでね」
彼女(54)は、彼(57)と何度同じ会話を交わしたかしれない。
13年半前彼女は、両親が所有していた3階建ての建物「寿」の1階フロアを、印刷業を営む彼に賃貸した。賃料は月22万円、期間2年の契約の更新を繰り返してきた。彼の印刷会社は従業員4人、パート3人の個人会社。デジタル機器の急速な普及で店をたたむ同業者が多いなか、地元の商店街や役所を顧客に年商5000万円、何とか踏ん張っている。
6年前に両親が亡くなって「寿」を相続した彼女は、彼に「寿」を近い将来建て替える予定だと告げた。木造で築30年たっており、老朽化が進んでいたからだ。2階と3階はアパートで、住人はみな了解した。だが、彼は即座に立ち退きに難色を示した。
建て替えはどうしても必要だった。
「寿」は、彼女の両親が、夫に先立たれ子どももいない彼女の老後の足しにと残してくれた。最近は周辺に続々と新しい賃貸マンションが建つので、「寿」も空室が目立ち、その古さが明らかに足かせになっていた。しかも、隣の住居とかなり隣接し、防火上の懸念もあった。建て替えで新しく1階のスペースを広くし、コンビニなどに入ってもらい、アパートは独身女性や若い夫婦に借りてもらおう。彼女はそう考えていた。
4年前から、彼女は具体的な建て替えプランについて彼に説明を始めた。建て替えの必要性を説き、立ち退きの際にはほかに代替物件を準備すること、それまでは賃料を低額に据え置くこと、さらに建て替え後の新しい建物には彼の会社を優先的に入居させることも提案した。
しかし、それでも彼はなかなか承知しなかった。
「うちは地元密着型の仕事で、ここを一時的にでも離れたら収入が少なくても4割は減る。新しい建物に優先的に入れるといっても、コンビニなどが隣にあったら印刷機の騒音や振動でトラブルになるのが心配だし。この建物は古いけど、まだ十分使えるよ」
彼は銀行からの借入金数千万円を返済中でもある。移転で仕事がストップすることが痛いようだった。
今年、彼以外の居住者は全員「寿」から引っ越した。追い出し役は彼女だってやりたくない。でも、仕方ない。彼女は、彼に立ち退き料を上乗せし、半年後の契約更新を拒絶しようと腹を決めた。 |
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