契約ないとタダ働き?

 彼女(35)はフリーの映像プロデューサー。大学卒業後、映像制作会社で活躍していたが、結婚、出産を機に退職し、休業していた。去年、子どもに手がかからなくなったので、3年ぶりに仕事を再開することにした。

  現場に復帰してまもなく、知人を介して中堅のY住宅建設販売会社の仕事を紹介され、さっそく担当者の安藤氏と面会した。昨今の住宅市場は厳しい。そこで購買意欲を喚起するために、1年後をめどに中堅の住宅メーカー数社でイベントを開く。ついてはそのイベントで流すY社のPR映像を制作できないか、というのが安藤氏の話だった。

  「面白いですね。ぜひこの仕事にかかわりたいです」

  「では、映像プランを出してみてください。社内の会議にかけますから」

  安藤氏との打ち合わせから1週間後、彼女はプランを提出した。Y社は注文住宅が売りで、注文主の家族の雰囲気とその土地の自然を意識しながら設計しているという。彼女は、設計段階から実際に家が完成するまで、Y社と顧客のやりとりや、設計、素材選びの過程を丁寧に表現するプロット(筋書き)を考えた。

  数日後、安藤氏から連絡が入った。

  「上司の反応もなかなかよかった。予算とスケジュールを出してもらえますか」

  彼女は高まる気持ちを抑えながら言った。

  「あのプロットなら、部分的に撮影開始が必要です。桜の風景は今のうちに撮らないと1年後に間に合いません」

  「まだ予算が出ていませんが必要なら……。上司もあなたに任せるつもりですので」

  安藤氏の言葉を受けて、彼女はスタッフを集めて撮影にとりかかった。その後も何度かY社の会議に足を運び、打ち合わせを重ねた。

  ところがその3カ月後、安藤氏から担当を引き継いだという鈴木氏に突然呼び出され、今回の仕事は彼女とは契約を結ばないと通告された。

  彼女は一瞬頭が真っ白になった。「どういうことです? イベントがなくなったんですか?」

  「映像制作は別会社に発注することになったんです」

  鈴木氏はその理由については答えなかった。彼女は黙っていられなかった。

  「だって、今まで私がかかわってきたじゃないですか」

  「これまでは準備段階でブレーンストーミング。まだ契約は結んでいませんし」

  自分は利用されたのか――。彼女はわきあがる強い怒りと悔しさをグッと抑えようと、目を閉じた。
 
 
かかった費用は請求できる

契約が結ばれていなければ、仕事の対価あるいは仕事上発生した損害について賠償請求できないのが原則だ。しかし、契約がないとの理由で一切何も請求できないというのでは、弱い者いじめがまかり通ってしまう。

  契約の準備段階で密接な関係に入った当事者間では、相手方の信頼を裏切らないように信義誠実に行動すべきだ。契約締結に至らず、一方に損害が発生した場合、その損害が、被害者の信頼を損ねるような相手方の行為が原因となっていて、かつ、被害者に契約締結を信じたことについて落ち度がないときには、被害者は契約締結を信じて行った業務の費用などを賠償請求できると考える。

  このケースでも、彼女は具体的なプランを提示してY社と何度も打ち合わせを行い、担当者から上司が了解している旨を伝えられている。また、Y社は彼女が撮影を始めたことを知っても中止させていない。こうしたことから、彼女はY社に、撮影費用などを賠償請求できる。
 
  筆者:本橋美智子、籔本亜里