郊外の一戸建てに住む彼女(54)は、定年を来年に控えた夫(56)とこれからどう暮らしていくべきか、真剣に考え始めていた。
夫はこのごろ、話しかけてもぼんやりとしていることが多い。結婚して30年になるが、こんな夫の様子を見たのは初めてだ。
夫はかつて、広告会社で様々なイベントをプロデュースし、家にいることがほとんどない仕事人間だった。だが3年前、ある事業で上司と意見が対立し、閑職に異動させられた。当初は「暇になってよかった。これからはのんびりとやるさ」と言っていたが、本当は相当ショックだったようで、だんだん元気をなくしていった。
自宅は20年前、都心から2時間ほど離れたニュータウンに建てた。4人家族には相応の広さだったが、2人の子どもが独立したいま、掃除するのもおっくうな広さだ。
彼女は、仕事イコール趣味だった夫の望みが、正直よくわからなかった。「あなたはここでいい? それとも田舎で畑でもする?」と尋ねても、「そうだな。土いじりも悪くないか……」と夫の返事ははっきりしない。
そこで去年の秋、農作業を趣味にしている友人の誘いに応じ、収穫祭に一緒に参加してみた。土いじりに手なれた人たちに教えられながら、夫も楽しんではいた。しかし、家に帰ってしばらくするとまた無気力状態に戻った。「土いじりもいいが、ずっとやっていられるかなあ」。夫はポツリとつぶやいた。
つい先日。ずっとごぶさたしていた友人から芝居の案内状が届いたので、2人は都心の小劇場に連れ立った。戦争で夫と兄弟を失った母子が戦後の混乱期を生き抜く姿をコメディー風に描いたその芝居に、小劇場の観客席は沸きあがった。彼女の隣に座っていた夫もまた、笑っては涙を流していた。
「案内役の俳優の語りと劇中人物たちの言葉の掛け合い、あの演出がいい。照明が丁寧で気持ちが入っていくんだよ」。芝居が終わって外に出ると、夫は目を輝かせながら力強い口調で彼女にしゃべり続けた。
久しぶりに見る彼のいきいきとした横顔。周囲を今風の若者たちが行き交うなか、熱く語りつづける白髪まじりの夫の姿が、彼女にはとてもまぶしく思えた。そしてそのとき、彼女は彼と一緒に都心に移り住もうという気持ちが固まった。 |
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