今ごろ事故の後遺症が

 すべてはあの事故のせいだった。1年前のある日曜日、彼女(38)は父(64)と一緒に駅に向かって歩いていた。その道は車がぎりぎり2台すれ違える幅しかなく、歩道にはガードレールもなかったので、車が通るたびにヒヤヒヤしながら歩いていた。

  「いつ接触事故が起きても不思議じゃないよな。道を広げられないのかね」

  父が彼女にそう言った瞬間だった。脇道から突然バイクが飛び出して父の上半身とぶつかった。父はバイクの勢いで転倒。右腕とわき腹をおさえながら、うずくまった。

  「痛い……」。父は顔にしわを寄せ、うめき声をあげた。救急車ですぐに近くの病院に運ばれたが、右前腕の複雑骨折と診断された。

  「すみませんでした」

  病院の廊下でバイクの若者(25)が待っていた。「どうしてあんなにスピードを出すのよ!」。彼女は思わず叫んだ。「仕事場に急いでいたもので。治療費は全部、おれが払いますから」

  彼女の父は自宅でクリーニング業を営んでいる。大切な利き腕のけがで、仕事ができなくなってしまった。兄が仕事を手伝ってはいたが、大黒柱の穴は大きかった。

  2週間後、バイクの若者との間で示談が成立した。治療費全額と父の傷が完治するまでの4カ月分の休業補償の支払いをすることで合意し、書面にした。

  「お金の問題ですんだと思わないでね」と彼女が言いかけたところで、バイクが飛び出してきたときの残像が心の内をよぎった。「父と私の心の傷はまだ残っているのよ」

  1年近くたち、父の腕は仕事ができるまでに回復したようだった。ところが、アイロンを持ってフルで働き始めたのもつかの間、ある朝父が右腕を抱えながらうずくまっていた。「痛みが走るんだ。腕が思うように動かない」

  彼女は慌てて父を病院に連れて行った。「後遺症かな。一度は治ったかに見えたけど、骨や神経が結構やられたからね」。機能障害が将来残るかもしれないと、医師は付け加えた。

  そんなことになったら、父は仕事ができなくなる。彼女はバイクの若者に連絡をとり、治療の継続を承諾するように伝えた。しかし、相手の反応は冷ややかであった。

  「示談の成立で、やることはやったよ。何でまた負担しなきゃならないの? 書面にした意味がないじゃないか」

  彼女はあぜんとして切り返した。「父のケガはあなたのせいよ。示談が何なのよ。責任持ちなさいよ!」
 
 
予想できぬ損害なら請求可

示談も契約の一つであり、一度成立すると当事者双方はこれに拘束される。示談後に被害者の損害がより大きいことが判明しても、加害者に追加請求できないのが原則である。

  しかし、人身事故のような場合、かなり時間がたってから後遺症が出てくることがよくある。当事者が示談当時に当該事故による全損害を予測することはなかなか難しい。

  被害者を救済する観点から、最高裁は、示談によって被害者が放棄した損害賠償請求権は、示談当時予想していた損害についてのみと解すべきであって、その当時予想できなかった後遺症などについては、被害者は後日その損害賠償を請求できるという判断をしている。

  このケースでも、示談当時予想できなかった後遺症であれば、彼女たちはその損害賠償を請求できる。

  示談書には、当該事故に起因して将来発生しうる後遺症についても損害賠償を請求できる旨をあらかじめ約定しておくことが望ましい。
 
  筆者:大迫惠美子、籔本亜里