パン店経営の彼(56)は、妻(57)と娘(33)の3人暮らしだ。東京郊外の借地に18年前、自宅を建て、ほどなく、部品メーカー勤めから脱サラ。自宅と同じ借地内に店舗も設けて、夢だったパン屋さんになった。
心配なのは、生まれつき体が弱く、働きに出られない娘の将来だ。さらに妻も最近、過労と軽い脳こうそくで倒れた。自分もいつまで元気でいられるかわからないので、こう考えた。
「せめて、住まいだけでも娘に残してやりたい」
持ち家のローンは、あと2年で払い終わる。
問題は借地のことだった。地主と結んでいた20年の借地契約があと2年で切れる。更新を希望したのだが、急に地主が「更新したくない」と言い出した。
「周囲の土地と一緒にしてマンションを建てたいんです。このへんは商店街に近くて便利だし、年配の夫婦は一戸建ての維持が大変でしょ。マンション希望者も多いんですよ」
彼は、頭を抱え込んだ。
地主は、いわゆる土地の有効活用をしたいという。将来は、そのマンションで長男夫婦との同居も考えているらしい。
彼は、契約更新を懇願した。
「私たちはここでずっとパン屋をやってきたし、この土地が好き。娘も病弱で、住み慣れた家を手放すのは困るんです」
借地返却の場合は、地主が彼が所有する建物を買い取る。
地主は「その金で近くに家を建てるなどしてくれないか」と言うが、彼にしてみれば、そう簡単にはいかない。築20年近い建物の価値は高くはないし、第一、長年のお客さんがついている店の方はどうなるのか……。
ところが、地主との交渉から数カ月後、彼の父が病気で亡くなった。彼が数千万円の遺産を相続することになった。彼は、そのお金で、いっそのこと借地を買い取ろう、と思った。自分の土地にさえなれば、将来も立ち退きの心配はない。
地主に「買い取りたい」と申し出ると、「いくらで?」と聞かれ、彼は口ごもった。
果たして、手持ちの金で買えるのかどうか、わからない。
仕事を終えた夕暮れ後、彼は自宅と店の前にたたずみ、もの思いに沈む日が続いている。 |
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