夫が遺した「一筆」が…
 
今年2月、彼女(38)は、夫(39)を肺がんで亡くした。結婚11年、子宝には恵まれなかったが、心穏やかな日々を過ごせて、夫の最期を傍らで静かにみとることもできた。幸せな結婚生活だった。

  夫は3年前、ひそかに生命保険に加入していた。契約者・被保険者が夫で、受取人が彼女、となっていた。その保険契約について、なぜ夫が彼女に知らせなかったかは定かではない。とにかく、彼女に3千万円の保険金が入った。彼女は夫の心遣いに感謝した。

  ところが3週間後、夫の知人というA氏から一通の手紙が届いた。「保険金の受取人は私。保険金をお渡しいただきたい」という趣旨だった。

  「どうして? 保険金の受取人は妻の私じゃないですか?」

  彼女はA氏に電話をかけた。

  「奥さん、だんなさんは私に借金があるんです。それに、念書も遺(のこ)されています。『私が万一の場合には保険金を受け取ってください』と」

  夫は2年ほど前からA氏に借金を重ね、その額は300万円にのぼっていたのだ。そんなことは、まったく知らなかった。

  A氏に会って、問題のその念書を見せてもらうと、確かに彼の筆跡だった。

  「でも、借金は300万円ですよね」。納得がいかなかったが、彼女は決着をつけるべく、300万円を振り込んだ。

  しかし、このことを親類に話したら、「保険証券に書かれた受取人は君だろ。A氏の言っていることはおかしい。お金を返してもらいなさい」と言われた。彼女はA氏に300万円の返却を求めた。

  「保険金の受取人は私です。受取人をAさんに変更したことなど夫から聞いていないし、保険会社だって知らないわ。お金、返してください!」

  彼女はきっぱりと言い放ったが、A氏は反論してきた。

  「念書をごらんになったでしょ。保険金の権利は私にあるんだから、お返しするわけにはいきません。保険会社が知っていたかどうかは関係ないんです」

  だが彼女も言い返した。

  「返していただけないなら裁判所に訴えますよ!」

  一つの念書の存在が、夫との幸せな暮らしへの追憶を、大きく揺るがした。
 
 
あっさり変わる保険受取人

保険金の受取人は、契約者が一方的に変えることができ、保険会社や新旧の受取人の同意は必要ないとされている。変更の意思表示の相手は保険会社でなくても、新旧いずれの受取人であってもよい。

  実務上、保険会社は二重払いの危険を防ぐために、契約者から受取人変更の請求書と保険証券を提出させて承認の裏書をしている。ただ、この裏書はあくまで二重払いの危険を防ぐためのものだ。受取人変更は、契約者の意思表示だけで効力が生じているので注意しておきたい。

  このケースでも、夫(契約者)が書いた念書が意思表示とみなされ、受取人はA氏に変更されていることになる。

  ただ、夫が念書にこめた意思は、死亡保険金で借金を返済すること、と解釈できるので、彼女は、A氏に300万円を支払うだけでいいはずだ。知人でなく、金融業者に借金していた場合でも、受取人は念書だけで変更される。注意してください。
 
  筆者:籔本亜里、本橋美智子