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彼女(84)は、息子(55)にこう言われるたびに、深く傷つき、悩みを深めている。
「かあさん、生きている間にローンを返済しておいてね」
3年前、息子は彼女のもとへ帰ってきた。中堅の不動産会社に勤めていたが、不景気で早期退職し、同時に離婚。妻とは、長期間の単身赴任でコミュニケーション不足に陥り、心の溝が埋められなかったのだ。
慰謝料代わりに自宅を妻に譲り、住宅ローンの残債を退職金の半分の1千万円で返済。残りも子どもの養育費として渡した。仕事、お金、家族のすべてを失った息子には、母親である彼女が唯一の寄る辺だった。
彼女は50年前、34歳で夫と死別した後、会社勤めをしながら女手一つで一人息子を育ててきた。小さいながらも自分名義の土地を持ち、その上に20年前、息子と共有名義で約50平方メートルの住居と、その隣に4部屋のアパートを建てた。その空き部屋に、息子は落ち着いた。
息子は、連日ハローワークに仕事を探しに出かけた。だが成果がなく、そのうち職探しをやめてしまった。ほかに行き場もないのか、いまは1日の大半を部屋の中で、ぼんやりテレビを見て過ごすだけだ。
しかたなく、彼女はアパートの家賃収入15万円を息子に与え、家賃でまかなっていたアパートのローンは、自分の年金で返済することにした。
細々とアパートを経営しながら、月に2回、演劇を観にいくのが楽しみだった彼女の生活は、一変した。ゆくゆくはケア付きマンションにでも入って、のんびり余生を過ごそうという計画も狂い始めた。
そのうち、老後の暮らしのために、と30年以上蓄えてきた預貯金約3千万円からも、ローンの返済や息子の生活費を補うようになった。預貯金は瞬く間に、500万円にまで減ってしまった。大好きな芝居にも、めっきり足が遠のいた。
一方、息子は夜、アルコールがまわると、「母さんのものは、ぼくがみんな受け継ぐから心配しないで」などと、彼女が死ぬのを待ち望むような口ぶりになるのだ。
老後をささやかに過ごしてきたはずだった。その最終章にきて、彼女は、思いも寄らぬどんでん返しに見舞われた。 |
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