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「もしもし奥さん、円相場というのをご存じですか?」
彼女(61)には聞き覚えのない声が、電話の向こうで親しげに話し始めた。最近のことだ。
「円が安くなっているのを利用してお金を増やすのです。いま、こうしている間にも刻々と資産が増えているという感じですが、やってみませんか」
「?……」
何のことだかさっぱり。
海外市場で通貨先物オプションを取引する会社だという。「1枚30万円ほどで買えるオプションが150万円くらいになります。安全確実、ローリスク・ハイリターンが特徴なんです」
「オプション」という言葉は初めて聞いたが、「ローリスク・ハイリターン」には心ひかれた。夫(66)は昨年、定年退職し、ローンが終わった自宅と退職金などで約4000万円の蓄えがあるが、今後の暮らしを考えるともう少しゆとりが欲しい。
「説明を聞いてみたい」。彼女がそう言うと、その日の午後、若い営業マンの男がパンフレットなどを持ってやってきた。
「国の政策で絶対円安になる」「今はリスクをうんぬんする場面ではない」という話ばかり聞かされ、結局彼女は、1ドルを137円で売る権利(オプション)を3枚、計90万円で購入することを承諾した。
「3枚なんて半端。100枚は持って下さい。こんな良い商品を買わなくてどうします?」
その後、セールスの電話が連日のように入った。次々買うよう勧誘される。いったん購入してしまうと、相手を疑えない。疑うことは、お金が戻らない可能性を認めることになるから。
300万円、600万円……。気がつけば1カ月後には計3000万円に達していた。夫には内証だった。
しかし、彼女の期待に反して円安は進まない。オプションの価格は下がり始めた。ある日、いつもの男と、上司と名乗る2人の男が来て、言った。
「奥さん、損を取り戻すには、1000万円で違うポジションを買う必要があります」
「もうお金はありません」
「損が出たままでいいんですか。これに賭けてください」
1時間後、彼女は自分より30センチも背が高い男たちに付き添われながら、銀行のATM(現金自動預入払出機)の前に立っていた。 |
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