「田舎」に行こうなんて
 
「長野の安曇野に引っ越さないか?」

  1年ほど前のある日曜日だった。夫(55)が朝起きてくるなり、彼女(50)に言った。

  「定年まであと5年働くより、早期退職で上乗せの退職金をもらって、好きなことをやった方がいいと思ったんだ……」

  夫が30年以上勤めてきた食器メーカーはアジア製輸入食器に市場を奪われていた。業績は低迷し、人件費削減のために50歳以上の社員を対象に早期退職を募集した。彼は部長職だが、近々関連会社への出向が予定されていた。

  「どうして安曇野なの。やりたいことって何?」

  「まずはどこか働き口を見つけ、落ち着いたらペンションをやりたい」

  そういえば、夫は昔から山登りが好きだった。いつか山に囲まれた暮らしをしたいと、ずっと彼は思っていたのだ。

  しかし、彼女は東京生まれの東京育ち。「東京を離れるなんて絶対に嫌よ」と、まずは大反対をした。

  20年前に買った住宅のローンが、あと1千万円ほど残っている。長男は大学院、長女は大学2年で、子どもの教育費もこれから400万円はかかる。

  上乗せ分も含めて、退職金は2800万円程度になる。預貯金は700万円ある。ここから住宅ローンを返し、子どもたちの教育資金を払って――。そう考えると急に不安になった。「家計をどう考えているのよ」と反対する彼女の剣幕に、夫はいったん提案を引っ込めた。

  数カ月過ぎたころ、「ちょっと小旅行しないか」と夫に誘われた。行き先は安曇野だった。

  東京から車で3時間あまり。晴れわたる青空のもとに田園風景が現れた。その向こうに雄大にそびえる常念岳。話には聞いていたが、目の前にすると、さすがにその美しさに彼女もひかれた。最近さえない顔をしている夫の気持ちが少しわかるような気もした。旅行はドライブ中心の淡々としたものだったが、夫は田舎暮らしについて一言もふれなかった。

  それから2カ月。夫が真剣な表情で彼女の前にきた。手には彼が長年にわたって集めてきた安曇野のスクラップと情報ノートが握られている。ちょうどそのころ、会社が第2次の早期退職者を募集しはじめていた。
 
 
退職金や年金の額を考えて

田舎で暮らす場合、まず気になるのが仕事。通常は都会に比べて収入が減るので、それでもやっていけるかどうかの計算が必要になる。退職金や預貯金に加え、中高年の場合は年金も検討材料だが、公的年金の支給開始年齢が引き上げになっている点に注意。今年55歳の男性は60歳から部分的にしか支給されず、フルに年金が支給されるのは64歳からだ。

  住居は地域にもよるが、家族向けで800万円〜1500万円前後の物件が多いようだ。もっとも、最初は賃貸から始めて住環境を知っていくのがよいだろう。また、田舎暮らしへのあこがれが、単なる都会からの逃避では失敗する。その地域特有の人間関係や文化があり、それになじめるかどうか見極めが欠かせない。役場のIターンやUターンの窓口を利用して地域の人間関係に入っていくことも一つの道だ。何より、夫婦がそろって納得して移住する気持ちを固めていきたい。
 
  筆者:安田洋子、籔本亜里